ゥムム・・・目が

どうしたことだ。

朝、目覚めると右の目がいたい。

手をやると下まぶたが腫れぼったい。

もしや、

おそるおそる鏡をのぞくと、やっぱり腫れているではないか。

2.3か月前も同じようなことが右目に起こった。

眼科にいく。

下まぶたに2箇所ボツができていた。

即効薬はないので処置後メグスリをさしながら日にちグスリとなる。

それにしても視力の衰えとあいまって最近目に関するダメージがつづく。

いたわらんとね・・・
スポンサーサイト

早朝

   120722-1.jpg

最近は目覚めが早い。

朝早く起き外に出て家の前の畑を一巡しながら涼しい空気を吸う。

日中どんなに暑くても、

夜明けは気温が下がっている。

これは田舎のごちそうだ。

みどりいっぱいの山の木々が空気を浄化してくれ、温度調整もやってくれる。

都会のビル街だとこうはいかない。

やはり人は程よく分散して住むのがいい。

こんなにいっぱいのごちそうがあるのに、人は都会に行きたがる。

ぼくも若い頃はそうだったけれど、

このごちそうをあらためて味わうともう後には戻れない。

きょうも暑くなるのだろうか・・・。

ようやった!

「那智の滝を攀ったクライマー」

今朝の新聞、
だれかがいつかやるだろうとは思っていたが、
勇気ある3人のクライマーをたたえたい。
どうせなら完登してほしかったが、制止の怒号に耐え切れなかったのか?

もとより確信犯!
世界遺産の冠を持つ熊野那智大社にすれば「ご神体を汚された」と思ったのだろう。

立ち入り禁止にして国民共有の土地(自然)を囲い込むのはちまたに目にするが、
(ぼくはたとえ法律的に私有地であっても土地には公共性があると思っている)
宣伝効果になったくらいの度量“神様の持ち主”にはほしいね。

そういえば外国には名だたる超高層を登りまくっているクライマーがいる。

またやらかしてしまった!

昨日、日中突然の雷雨、文字どおりバケツをひっくり返したような雨だった。

もしや?

家の1階はすべて締めて出ていったのだが、2階はあけっぱなし・・・

びしょぬれになって2階に駆け上がると寝室北側の引き戸から振り込んだ雨で床一面に水がたまっている。

とりあえず水を拭きとらなければならない。下に染みたらたいへんだ。

ぬれたのと汗でべたべたになりながら一仕事。

つい先日も事務所の2階で同じ目にあった・・・学習していない。

いや、予期せぬ雷雨が悪いんだ・・・。

予期せぬ豪雨、予期せぬ斜面崩壊・・・熊本の豪雨被害が報じられている。

自然とどう付き合っていくか、

予期せぬ状況下に常におかれていることを、まず予期しておくことが大切なんだと思う!?



夏じゃがの収穫

■雨も去り、お陽さんが出た日曜日、残っていたジャガイモを秘ひと畝掘りあげた。
  昨秋の秋じゃがは出来が悪くてあまりとれなかったが今回はまあまあってとこ。
  ここんとこ雨が続いたので草もしっかり伸びている。

120708-1.jpg

 品種は「メークイン」、長ボソいのが特徴。煮くずれしにくいので煮物に向いている。
 先に掘った左の畝はたしか「トウヤ」だったか?忘れた。
 コロコロッとしたものは、ダンシャク、キタアカリ、トウヤなどだが
 種芋のときにちゃんと覚えておかないと見分けにくい。
 ダンシャクは昔からよく植えられていたのでくぼみが多いのが特徴で、
 例えて「ジャガイモ頭」なんて言ったものだが・・・

 さあ、もう梅雨もあけるのだろうか。

あるセミナー

 先日知人の誘いで葬祭セミナーに参加した。異分野であることと、どんな顔ぶれが来ているのだろう、というのも興味があった。これを受けると「葬祭カウンセラー」なるものの認定がもらえるというのもちょっと興味を引く。葬式と言えば、すでに父母弟を見送り、あとに控えている家族もいる。それに仕事で葬儀会館も手がけたこともある。葬式は人生の最終章のセレモンーだが、それはどう生きるかを問うことにほかならないとぼくは思っている。少なからず興味があった。

 講師は二村裕輔氏。この世界では有名な人でTVにもよく出ている。(ぼくはぜんぜん知らなかったが)進行を荒木まさ子さんという知的な女性が努めていた。名詞に日本葬祭アカデミー教務研究室と書かれ心理カウンセラーでもあるようだ。さて内容は一言でいうととても面白かった。参加者は約20名、男女が6:4といったところか。この業界の人や保険関係の人が主なようだ。二村先生のファンでリピーターの女性も何人かいた。

 「葬式」ということばがある。これは「葬儀」と告別式」の合成短縮語ととらえる。そして「葬儀」は「葬送儀礼」の略で、これは遺体の扱いに関する「葬送」と魂に関する「儀礼」に分かれる、という。そして、「告別式」は故人が築いた人間関係や地域社会を対象にした「別れを告げる式典」と明確に定義する。かつてぼくは自治会の葬式の司会をしていたときに「たたいまより、故○○様の葬儀並びに告別式を執り行います」などと深い意味を考えずに定形の前例にならってやっていたことがある。プロの進行では「葬送の儀を・・・」などもよく聞くことばだ。なんだか入り混じってよく分からなかったが、葬儀と告別式は別のものだということが今回明確に理解できた。葬儀は死者への儀式でありしなければならないが、告別式は結婚式の披露宴のようなものでしてもしなくてもよい。まったく自由なのだ。目からウロコが落ちた。

 話を聞いているとおもしろく死生感が整理される。人の一生という図表がある。円形で上半分が「この世」、下半分が「あの世」だ(ぼくは無界だと思っている)そしてこの世の右半分が「生まれてから成人まで」、左半分が「大人になってから死ぬまで」。あの世といえば左半分が「死んでから弔い上げ(33又は50周忌)まで」、右半分が後生「霊魂の安定期」・・・となる。そして命の誕生が始まる・・・輪廻転生、死はこの世に準じて取り扱われる。もう一つ、「葬」の字は草の上に死者を置きその上に草を掛けておく、という意味。つまり死者は里山に捨ておかれ草をかぶせて弔われたわけだ。「野辺の送り」という。草葉の影から・・・などという言い回しもある。死者は生者との縁が絶たれたわけではない。